ヨーロッパ
北欧では冬の貯蔵食品として愛用。
北欧では、果実の採れる短い期間に、お母さん方が、越冬食品として、野生のいちご、ラズベリー、力ーラント類のジャムを一生懸命につくり、壺に貯えます。我が国の漬け物と同じように、保存食品として愛用されているわけです。家族は、冬の間この「母の味」を感謝して食べているのでしょう。
シャーロック・ホームズはジャムを楽しめなかった!
ジャムの先進国は、イギリス、フランスです。イギリスでは、いちごが古くから豊富に自生していました。ストロベリーの名は、10世紀の植物誌にありますが、いちごに宗教的な「徳性」を見つけて尊重し、中世期からエリザベス王朝にかけて、野生のいちごを庭に移植・栽培することが流行しました。シェイクスピアの「ヘンリー8世」にも出てきます。マーマレードになるオレンジは、15世紀に、バスコ・ダ・ガマが、インド周航から持ち帰り、その後大量に輸入するようになりました。また、イギリスは砂糖の貿易を独占していましたので、ジャムづくりの伝統を誇ることができた訳です。
18世紀から19世紀にかけて、産業革命が一応達成され、国民の生活レベルは向上しました。しかし、19世紀に推理小説の中で活躍したシャーロック・ホームズも、仕事が忙しくて、作品の中では、ジャムを楽しむ食事をしていません。ジャムは当時まだまだ高級で貴重な食品だったのです。英王室御用達に、チップトリー社のジャムとオレンジマーマレード、クーパー社のオックスフォード・オレンジマーマレードがあります。このオックスフォード・オレンジマーマレードは「英国人の真心」「マーマレードの芸術品」といわれています。事実、英国人は黄金色のマーマレードを朝食に欠かさず、そして深い満足を得てエネルギーの源泉となっているのです。
ノストラダムスがフランスにジャムを広めた?
「小瓶に詰められた太陽の輝き」「天使の唇」と詩人が讃えているのがフランスのジャムです。さすがに芸術の国だと感心します。ジャムのフランス語は「コンフィチュール」(果実の砂糖煮)です。王様の正式な晩餐メニューには、デザートに必ずジャムがありました。現在でも、ほんとうのフランス料理の朝食というと、各種のジャムがでて、クロワッサンにつけて食べるのです。
フランスルネッサンス期に、占星学でいろいろな事件を予言して当てたノストラダムスが、1552年に「化粧品・果物砂糖煮について」という本を出版しています。このハウツウ書によって、それまで農家の製品であったジャムが、都市の家庭でも作られるようになったのです。19世紀以降の中流家庭では、年中行事として家伝のジャムをつくりますが、これは花嫁修業のひとつになっています。
そんなわけで、手作りジャムの伝統を誇るメー力ーが2、3社あり、なかでもフォション社のジャムは60種類にのぼります。パリには、ジャムなどのギフト専門店もありますが、パリといえば、街角で売っているいろいろなジャムを包んだクレープや、指の間を流れるほどあんずジャムをたっぷりかけたドーナッツを楽しく食べるアベックの姿などは、寒い季節の風物詩といえましょう。
ジャム先進国は、パン先進国。
ジャムが発達したイギリス、フランスは、また、パンのおいしい国です。芸術品のようなジャム・マーマレードは、おいしいパンに出会うことによって、食生活に絶妙のアンサンブルを奏でているのです。
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アメリカ
ディズニーランドに匹敵する遊園地?ジャム王のベリーファーム。
ヨーロッパ人が移り住んだ国ですから、ジャムは好まれ、ファンシーフルーツジャムのボレイナー社、「オレゴンの誇り」といわれるジャムのディキンソン社、ポーション容器のMJB社、スマッカー社、ノッツ・ベリー・ファーム社など、私どもになじみのメーカーが、ヨーロッパに劣らない製品を出しています。ノッツは、アメリカのジャム王の一人といわれ、そのベリーファームは、ロスアンゼルスのハリウッド、ディズニーランドなどとともに遊園地として親しまれています。もともとは大農園で、いちごの時期に、白い紙に紅いいちごを包んでくれるのが、評判をとったのです。アメリカで最も好まれているのは、いちごジャム(プレザーブスタイル)です。
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ロシア
ミルクがあったら、ジャムティーはなかった!
ロシア人は、パンにぬるだけではなくジャムやマーマレードを楽しみます。ロシア風ジャムティーがそれです。独特の煮だした紅茶の中へ入れて飲むのですが、苦味や渋味が和らげられて、おいしくなります。雄大なロシアの風土が生んだ飲み方といえるでしょう。ロシアの風土が酪農に適さず、ミルクやクリームが豊富に手に入らなかったので、イギリスのようなミルクティーにならなかったのです。
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日本
明治10年、
国産ジャム第1号はいちごジャム。
ジャムは、宣教師が16世紀後半にもたらしたと考えられます。南蛮風を好んだ織田信長は、おそらく口にしたと想像されますが、記録は見つかっていません。日本で初めてジャムをつくったのは、明治10年、東京の新宿にあった勧農局で、そのいちごジャムを試売したそうです。企業としての始まりは、その4年後、1881年(明治14年)のことで、長野県人により缶詰のいちごジャムがつくられました。以来、長野県はジャムづくりが盛んになりました。
夏みかんの原木は天然記念物!
日本には、いちごが5種類ほど自生していて、清少納言が「枕草子」で、色彩の感覚としてとりあげていますが、観賞用の植木としてあったにすぎません。開国後オランダ人がいちごをもたらし、明治に入ると輸入されるようにもなり、国内で広く栽培されるようになったため、いちご=オランダいちごといわれています。
あんずは、1620年頃(元和年間)、伊予宇和島(愛媛県)の伊達家から輿入れした信濃松代(長野県)藩主真田幸道夫人が、故郷の春を懐かしんで宇和島から取り寄せた苗木を、現在の更埴市森村に植えたのに始まるといわれています。
マーマレードになる夏みかんは、山口県青海島の海岸に漂着したものを、娘さんが拾い種子を蒔いて育てたもので、原木は天然記念物に指定されています。
パン食の普及とともに需要拡大。
ジャムの普及発達に欠かせないパンは、西南戦争の軍用食として登場。大正時代にパンとジャムが国民に普及していきました。夏目漱石の「吾輩は猫である」の中で、苦沙弥先生が、“俺はジャムは毎日舐めるが…”と言っていますが、漱石は、パンには砂糖をぬっていたということです。森鴎外も好きだったようで、ヨーロッパに留学した学者たちは、そのおいしさにヨーロッパ文化を投影して味わっていたのでしょう。戦後、学校給食のパン食で、学童がジャムに親しんで成長してきたこと、洋風化志向となったこと、ジャムメーカーのたゆまざる努力によって価格と品質が消費者に受け入れられるようになりました。今日ではますますジャムの需要が増え、国産ジャムの割合が85%(2008年実績88.8%)前後となっています。
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